当たり前のように生活していて
毎日、何時起きて、次にこれをして仕事も家庭も、何気に日々の生活を当たり前のようにしてますけど、この当たり前なことは、とてもありがたい事ですよね。とつくづく思うのですが、ついつい当たり前のように捉えてしまいます。
いつもの生活が当たり前のように過ぎていき、その生活は当然のごとくあるように安心できるからだと思います。
当たり前の意味をググってみたのですが、二通りの意味があるそうです。
- 誰が考えてもそうあるべきだと思うこと、当然なこと。常識。
- 普通と変わっていないさま。珍しくない様子。ありふれているさま。
とありました。
二通りのうちの2番の当たり前のことが、実はありがたいことであって、そこに感謝しなくてはいけないですね。
私の場合ですが、毎日の生活が変わらずできるのも、安心して住める家に住めるのも、ルンルンとワンちゃんの散歩ができるのも、当たり前ではなく、とても恵まれていて感謝しなくてはと、ふと何回も思うのですが、つい当然のように生活してしまいます。
仕事に没頭出来たり、勉強したいことが勉強できたりするのも、実は当然のことではないのだなと。安心して当たり前のように家に住んでますが、今、住んでる家は夫が必死で会社員として働き、その対価で頂いた賃金で頑張って家を建てた家に、のほほんと住んでいるのです。それを当然のごとく。
実家にいる時もそうですよね。ご両親やまたその先祖の方たちの頑張りで今、好きなように生活できていますよね。
よくよく考えたら(考えなくても分かりますが)とてもありがたいことです。それをつい当然のごとく好きなように振舞ってしまいます。実はわかっていたりするんですけどね。
この当たり前なことは、すべて与えられていることであり、それに感謝しなくてはいけないということ。当たり前なこととは有り難いこと。そして、そのように思えるような捉え方に成長していかなくてはいけないとのこと。それが二通りのうちの1番の当たり前になれると良いですよね。
その捉え方には、やはりカルマヨーガが必要ですね。その理解がないと、実は与えられていることも、感謝しなくてはいけないことも、当然のことで終わってしまいますね。
ただ、その捉え方がすぐできるかというと、なかなか出来ないです。なので、日々の祈り(プージャーやチャンティングなど)や、社会人としてするべき5つの行い(パンチャ マハー ヤッニャ)など理解して、できる範囲でその行いをしていくことで、その捉え方が育っていくものだなと思います(去年のプージャーキャンプやヒンディーカルチャーのワークショップの内容)。社会人として貢献していく、行いを捧げるという捉え方。
そのような教えは特別なものではなく、アーサナヨーガをしている人がすることでもなく、誰もが出来ることですべきことですね。
カルマヨーガの捉え方は本当に大切であり必要な教えですので、これからも学べる機会を設けていく予定です(6月と9月に予定)。
その捉え方が成長だと思います。そして、ヴェーダーンタという教えがしっくりときて、充実していけることになります。
当たり前に感謝できますように。